第二章トーネット社の歴史

第三部:トーネット社と
バウハウス周辺

■バウハウス設立

バウハウスの講師陣(1926年)

 1920年代、トーネット=ムンドス社にはさまざまな変化が起こっていました。当初の不況より立ち直り、ピルツェルとの関係も徐々に改善され、再びこの会社の実権はトーネット兄弟が取り戻しつつありました。
 1919年、ヴァルター・グロピウスによって、ワイマールにバウハウスが創設されます。しかし、この新しい〝建築術〟の確立と建築家の育成を目的とする総合造型学校兼研究所は、その主義思想がナチズムと相反するとして政治的な圧迫を受け、1925年にデッソウに移転することになるのです。

バウハウス校舎 ドイツ、デッソウ
ワイマール国立バウハウスのマーク(1922年)

 翌1926年、グロピウスの手で設計された校舎で授業を再開し、その目標も機能主義的な色彩を強めていく中、 1928年にはハンネス・マイヤー、1930年にはミース・ファン・デル・ローエが所長に就任、教育を続けます。
 しかし1932年3月、政府の圧力により閉鎖を命じられ、ベルリンに移って私立学校として再開しますが、1933年3月、またもやナチスにより閉鎖解散を命じられることになります。

ミース・ファン・デル・ローエ (1886-1969)

■バウハウスの理念

 グロピウスのいう〝建築術〟は、もとより狭義の建築技術ではなく、人間環境全体の造形を意味し、建築をして現代の総合芸術に高めるというのが目標でした。
 そこで、そのために必要なすべての芸術創造、すべての工作技術、工学的訓練を、建築のもとに再統一するという造形教育システムが実施されていました。バウハウス解散後も、その理念はバウハウスの芸術家たちを介して世界各地に広がり、いわゆるモダン・デザインの礎石となります。

マルト・スタム (1899-1986)
マルセル・ブロイヤー (1902-1981)

■バウハウスでの家具開発、カンティレバーチェアの誕生

ミース・ファン・デル・ローエのデザインによるMR533

 ハンガリー生まれのマルセル・ブロイヤーは、バウハウスに第1期生として学び、そこで家具製作の指導に当たるとともに、自らスティールパイプを用いた家具類を開発します。また、マルト・スタムはスティールパイプを用いて、後脚のない、世にいう“カンティレバー構造”の椅子を発案、デザインします。バウハウスの中で、その発想はすぐに周りへ影響を与え、ミース・ファン・デル・ローエ、マルセル・ブロイヤーらにより次々と新たなデザインが生まれていきました。それぞれ形態的な相違はあるものの、「空気の上に座る」ということが、彼らに共通する発想の原点になっていました。

スティール家具のカタログ表紙(1930年頃)

 さて、開発はしたものの、このような椅子を試作してくれる工場を探すのは困難でした。結局、彼らはオーストリア最大の家具メーカーであるトーネット社に依頼することになりますが、トーネット社のほうでもその試作に協力したのは単なる偶然ではありません。木とスティール、という異なる材質ながら“曲げる”という共通点と、トーネットの先駆的な開発精神が、スタムやミースを挑発したことは疑う余地がありません。

トーネット=ムンドス社のカタログ(1931年)

 1927年、ミースの開発した「MR533」および「544」は、ワイゼンホフの展示会、さらにシュトゥットガルドの展示会に出品されます。こうして、新しい素材と新しい感覚の結合によって生まれ、完璧な技術をもって製作されたこれらカンティレバー構造の椅子は初めて世に紹介され、当時の人々を驚かせたのです。トーネット社は、この他にもバウハウスのスティールパイプ椅子のほとんどを試作し、それらの第一号は全てここで手掛けられています。

■忍び寄る戦争の影とバウハウス・プロダクト

 その後1930年代、ミースやマルセル・ブロイヤーたちはアメリカに亡命、すでに同国にあったハンス・ノル社に協力して、新しく同型式の椅子を作りますが、当初の開発番号はディテールに相違が出たため使用できず、例えば卜ーネット社で「B32」という番号のものは、ノル社ではブロイヤーの娘の名がつけられていて、これがいわゆる“チェスカ・チェア”です。
 同じように、「MR533」には“ミスター・ダイニング”という呼称がつけられていますが、これも開発当初とは異なった形態となったものです。現在、イタリアのカッシーナ社でつくられているバウハウス時代の椅子も、第一号はトーネット社によって試作されたと文献にあります。

ミース・ファン・デル・ローエのデザインによる椅子、
テーブル(1936年 トーネット・カタログより)
トーネット社のパリ・ショールーム
1933年のカタログの背表紙

 「MR533」のオリジナルは、笠木部分を外し、皮革の両端を袋縫いにして座と背とし、上部からインサートした後、笠木をはめ、さらにその後で座の裏より座幅を補強するためアジャスターのついた“ボウ”(弓)を入れたもの。しかし、ノル社では補強用にチューブを熔接したので革を巻き下部を皮革紐で締め、背も背後が同様となっています。

 「B32」は、座の前部の前のめりとなった落としこみと、座から背に移るチューブの曲げ型式に相違点が見られます。このフレーム構造のオリジナルには、ドイツ政府によって“美術権”というあまり他に例をみない権利を与えられ、保護されていることを知る人は少ないでしょう。

■第二次大戦が及ぼした影響

 さて、話は戻り、1939年、ヒトラー率いるナチス軍がポーランドに進攻し、第二次大戦の幕が切って落とされます。これより先、1936年ごろより、ナチスの圧迫が強まる中で、多くの東ヨーロッパのユダヤ人たちは他国に亡命を余儀なくされるようになり、ポーランド系ユダヤ人のピルツェルもついにアメリカヘ逃がれることを決意します。そこで彼は、アメリカの3ヵ所にすでに建設していたトーネット=ムンドス社の近代的な工場と、合衆国におけるトーネットの名称使用権を交換条件に、持株をトーネット一族に返し、1939年アメリカヘ移住しました。因みにアメリカではブナ材がほとんどないため、曲木にはアッシュ材が使われています。ピルツェルが去ったあとのトーネット=ムンドス社とムンドス社は、旧に復して「ゲブリューダー・トーネット商会」となります。

 遡って、ビストリッツェの工場は、1925年から30年ごろまでは、世界的な好況の波に乗って安定し、輸出も盛んになっていましたが、1930年代初頭の経済恐慌でビストリッツェにも失業者が増え、工場も一週間のうちわずか24時間しか稼動せず、従業員の賃金も制限されるようになります。ホレショフ市には共産党の支部が設立され、ストライキやデモが組織的な性格を持つようになりますが、この地方の中心的企業であるトーネット=ムンドス社も、失業者救済に何ら有効な手だてを打つことができませんでした。

 ナチズムの到来は、ビストリッツェやハレンコフの工場長を兼ねていたアウグスト・トーネットをむしろ喜ばせます。ピルツェルはアメリカ亡命の道を選ぶことになりますが、アウグストは逆にドイツ軍に接近、緊密な関係を保とうとします。これに対し労働者たちは、サボタージュなどをもって抵抗します。
 もともと軍管轄下に置かれ、上質な木材で銃の床尾などを作っていたため、あまり利益のなかったビストリッツェ工場は、この煽りもあって1937年、閉鎖されます。ただし、レジスタンスの隠れ家として大いに役立ったので、主要な建物は終戦後もその姿を留めています。周辺のハレンコフ工場、コリッチャヌイエ場、そしてフセチン工場も爆撃による全壊を免れはしましたが、現在は新市街を作る為取り壊されました。

 戦況は次第にドイツ軍の敗色を濃くし、1942年、ヘッセンのフランケンベルグ工場が連合軍の爆撃によって潰滅的に破壊されました。しかし、ただちに修復再建にかかり、1945年に終戦を迎えると、それまで捕虜として捕われていた各地の工場の従業員が、この自由圏に残った唯一の工場に戻り、わずかずつ生産を再開し、トーネット本社としての礎を築いていきます。
 また、戦後、東ヨーロッパ諸国に残されたトーネット、卜ーネット=ムンドス、ムンドス社時代の工場群は、それぞれの国に接収されましたが、現在でも伝統的な製造方法を伝える一方、近代的な設備を導入して、安定した生産を続けています。