第二章トーネット社の歴史

第二部:戦渦をくぐり抜けて

■第一次大戦の勃発

 1913年、ビストリッツェ工場からは、大量の製品がアメリカ、イタリア、フランス、ドイツ、南アメリカその他と、プラハ、ブルノの市場に輸出されていました。そして、第一次大戦が勃発。サラエボにおけるフェルナンド皇太子の暗殺をきっかけとした戦争で、トーネット社は軍需企業として政府の管轄下に置かれます。それ故、銃尾、木靴などの軍用必需品の生産も始めなければならなくなりました。

 トーネット社は、北米向け輸出品のための倉庫をニューヨークに借りていたため、戦争が起こる直前この倉庫に大量の製品を送り込みます。倉庫の管理責任者は、アルフレッド・トーネットの娘の夫、ワーネルで、アメリカにおけるトーネット社の倉庫は、全てこのワーネルの名義になっていました。彼がアメリカ国籍だったためです。その結果、彼は倉庫に収められていた大量の製品をあたかも自分が所有者のごとく自由に販売し、その利益をヨ—ロッパには送金しなかったので、トーネット社は1900万ドルという多額の欠損を出すことになったのです。

■第一次大戦後のトーネット社

トーネット・ムンドス社のベルリン販売店

 1918年、第一次大戦終結。アメリカ事件直後のトーネット社の財政は順調な回転を欠き、しかも、オーストリアやドイツに所有する同社の財産は1920年代のインフレーションによって価値を下落させました。加えて、次第に強烈な様相を呈しはじめた競争会社の圧力―このような逼迫した状況下で、1916年、トーネット兄弟は財政家レオポルド・ピルツェルの提案を受け入れ、ヤコブ・ヨゼフ・コーン社と合併します。翌18年には本社をスイスのチューリッヒに移し、同時にその名称も「トーネット=ムンドス」と改めました。ピルツェルは経済・経営・金融の大家であり、ドイツ語を話すことのできるポーランド系ユダヤ人でした。

 トーネット=ムンドス社は、その支部を単にチェコスロヴァキア(当時)だけでなく、ポーランド、ユーゴスラヴィア(当時)、ドイツ、オーストリア、ルーマニア、オランダ、そしてアメリカ、という広範囲に持っていました。チェコスロヴァキアにおける株式の基本資金は1200万クローナ。一株400クローナで3万株が集まります。
 当初、トーネット兄弟が45パーセントを所有し、ピルツェルが55パーセントを握っていたため、ピルツェルはトーネット兄弟の追い出しを図ります。彼は、もともとトーネット・ムンドス社のチェコスロヴァキアにおけるディレクターに過ぎませんでしたが、次第に頭角を現し、ついに社長に納まります。そして、プラハのジフノステンスカ銀行の頭取、プライスの助力を得てますます同社を発展させていきます。

トーネット・ムンドス社の
カタログ表紙(1930年 オランダ)

 また、彼は、トーネット=ムンドス社のほかに、1920年、スイスの小さな町ツグに持株会社「ムンドス株式会社」を設立、これを親会社としたので、まもなく曲木家具の世界的市場はムンドス社によって支配されることになります。各国の相互取引に中立の立場から、自由に介入することができたからです。
 こうして、各国の曲木家具の市場は、ピルツェル以外事実上コントロールできなくなったため、彼は、きわめて低廉な卸値で曲木家具をスイスに集結させ、それらを非常な高値で各国に売りつけ、莫大な利益を得ます。