第一章曲木とトーネットの出発点

第三部:トーネット社としての発展

■曲木家具の需要につれて、材料不足が発生する

当時のカタログ(上下とも)

 第1回の万国博以後、各地で年々博覧会が開催されるようになり、そのたびにトーネットの出品した家具はメダルを獲得し続けます。たとえば、1855年にはミュンヘンで、1854年にはパリで、1862年にはロンドンとウィーンで、というように、彼の家具に対する評価はますます高まっていきました。

 しかし、ここでトーネットは、新たな障害に直面することになりました。すなわち、量産家具にとっての最大の現実的な難関、材料となる木材の不足です。

 もとより、どんな種類のものでも、どんな場所、地質に生育しているものでも、曲木家具材として使えるというわけではありません。材料には、山岳の北斜面地帯に繁殖したブナの木が最適だとされていました。当時、トーネットの工場では、1脚の椅子に対して使われていたブナ材はおよそ35デシ立方メートル。需要の増加につれて、当然ブナ材の生育期間と伐採時期とのあいだにずれが生じ、間に合わなくなります。どこかに新しいブナの繁殖地域を探す必要が生じたのです。

■コリッチャヌイに新工場完成、さらにオーストリア市民となる

19世紀半ば頃の曲木機械

 種々調査の結果、1857年に現在のチェコ、モラヴィアのコリッチャヌイの領主が所有していたブナの森林が最適地として、伐採権交渉の末、その土地に工場を建設することになりました。
 1857年、コリッチャヌイに新工場が完成。それと同時に、トーネット社は、以前から申請中だった曲木製造技術に関する13年間のパテントを取得します。新工場が順調に稼動しはじめ、さらに新しい機械類も導入して増産体勢に入ったのを見たうえ、1858年5月、トーネットはウィーンの工場を閉鎖しました。また、これに先だつ1856年、トーネット満60歳の折に、以前から申請していたオーストリア市民権が下り、彼はオーストリア市民となります。

■分業化を進め作業を簡便化、生産量を増加させていく

 コリッチャヌイ地方は、ブナ材が豊富なだけではなく、古い習慣を残したままの田舎でした。だから労賃も木材の価格も低廉。ギルドに属して高給を要求する職人を雇い入れる必要もありませんでした。すべての生産工程を周辺の地から集めた男女に習得させればよかったのです。また、トーネットは、何の知識もない者でも使える治具、工具、機械類を自ら考案し、労働者に使わせました。こうして、作業の分割をはかり、分業化を進め、さらに作業そのものを簡便化して、生産量を増加させていったのです。
 トーネット自身が治具、工具の類いまで考案しなければならなかったのは、当時はまだそのような専門機械が販売されるまでにはいたっていなかったので、各メーカーとも、必要なものを自ら考案する他なかったのです。
トーネットのあくなき探求心は、この分野でもいかんなく発揮され、他社に先がけて行なった技術革新が、結局、需要の増大に応えうる生産量の増加につながり、他社を制することになりました。

トーネットが開発した鉄製の曲げ木治具各種、後脚と笠木が一体化して曲げられている。
トーネット社製そりの各種。
No.8の三面図。
トーネットの文字どおりのベスト・セラーNo.14。「最初のコンシューマー・チェア」と呼ばれている。これはウィーンの工芸博物館に展示されているもの。
No.14の最初のバージョン。現在もこの形に近い。
初期には後脚から立ち上げて棒を二つに割り、細く裂いて張り合わせながら笠木の中央でジョイントさせた。
初期のもので
No.8に近い。
No.14の分解図
同じNo.14でも工場によって多少異なる。右はノボラドムスク(現ボーランド)、
中央はピストリッツェ(現チェコ)、左はフランケンベルグ(現ドイツ)工場のもの。

■No.14のベスト・セラー。まさに今日のマス・プロダクションの原型

1859年の最初のポスター・カタログ

 トーネット社は、当初は小椅子と肘付き椅子の生産を中心にしていましたが、やがてロッキング・チェアや籐張りによる特殊な椅子類を専有化し、その販路を全世界に開くことができました。さらに、テニスのラケット、スキー、そり、また家具とは何のかかわりもない砲台、戦車用の木造車輪までにも手をのばします。テニス用ラケットの製造工程を示すサンプルが、これもウィーンの技術博物館に展示されています。

 5人の息子たち、すなわちフランツ、ミヒャエル、アウグスト、ヨゼフ、ヤコブによって引き継がれたトーネット兄弟商会は、次々と新しい組み合わせの椅子を製作していきます。そしてその都度、製作順に番号を付していきました。

 とくに、No.8を発展させたNo.14は、1859年にその第1号が完成、フォルムの単純さと生産性の良さとがあいまって、その後の40年間に実に50,000,000脚を生産・販売、100年近くを経た今日でもなお生産され続けています。まさに今日のマス・プロダクションの原型ともいえるベスト・セラー。翌1860年には、曲木ロッキング・チェアNo.7001が完成されています。

テニスラケット
1860年に作られた最初のロッキング・チェア
No.7001。ウィーン工芸博物館蔵。
初期のロッキング・チェア各種。現在見られるもの
は右上のNo.70028、29が多い。

■世界最大の曲木工場を建設

No.18とその部分(左)。輸出用のためノック・ダウン方式はとくに便利だった。

 1860年、コリッチャヌイの工場では、300名の労働者が1日に200脚の椅子を生産していました。しかし、この程度の生産量ですら、周辺のブナ材だけでは充分ではなかったのです。

 そこで、トーネットは、ビストリッツェ・ポド・ホステイネムの領主アルンシュト・ラウドン侯と交渉、侯の領地内にあるブナ材の供給に関して契約を締結、1861年、この地に世界最大の曲木工場を建設します。また、ブタペストには直営小売店を開設しました。

 翌1862年には、パリ、ロンドンにも直営販売店を置きます。こうして、次第に販売態勢も整えられていきますが、またしても問題は木材不足です。トーネットはグロスウグロウにあったブナの森林を買い取り、1865年、これを自社の材料供給源に加えます。だが、それも束の間。4-5年たつと、再び新たなブナ供給源を探さなければならなくなりました。彼は近隣のヴェルケー・ウヘルツェ領地に製材工場を建設するとともに、木材供給について、現チェコとポーランドの国境にあるジヴィエツ製材所や、ハレンコフにあった製材工場など、他社との取り引きもはじめます。

前脚の構造。台輪に稔子の穴を開け、脚上部を蝉形に削って締め付ける。

 また、1866年には、ベルリン、ハンブルグ、ロッテルダム、ブルノにそれぞれ直営販売店を開設し、翌1867年にはフセチンにも工場をつくりました。こうして、ブナを求めていたちごっこを繰り返しながら、トーネット社は発展に発展を重ねていきます。

 この年発表されたのがNo.18。ときにはヴィエナ・コーヒー・チェアなどと呼ばれるこの椅子は、そのほとんどが輸出されたため、外国では曲木椅子の代表作のように思われていますが、元来はあくまでも輸出用モデルとして開発されたものです。

■パリ万国博にて金メダルを獲得

1867年のパリ万国博における展示。前列の右にデモンストレーション用の2本の丸棒による安楽椅子が見える(表紙参照)

 同じくこの年に開催されたパリ万国博に製作展示された椅子が数点金メダルを獲得します。デモンストレーション用とはいえ、とりわけ圧巻だったのは、2本の丸棒を編んで1脚の椅子に仕立てあげたものです。この椅子は現存し、1脚はウィーンの技術博物館に、他の1脚はチェコはモラヴィアのホレショフ博物館に大切に保存されています。

 トーネットの成功は、もちろん他の家具メーカーの注目の的。その特許消滅時期を待って、同形式のものを生産すべく手ぐすねひいて待っていたのはいうまでもありません。たとえば、トーネットの主工場があったビストリッツェの近隣の町、ホレショフやフセチンには、のちにトーネット社の最大の競争相手となるヤコブ・ヨゼフ・コーン社の動きが、特許が切れる前より活発になっていました。しかし、1861年、息子のアウグストとともにビストリッツェに移り住んでいたトーネットにとって、すでに会社の基礎はゆるぎなく確立されていたのです。

 加えて、1883年には、フリーン市とビストリッツェ市とのあいだに鉄道が敷設され、ビストリッツェ市は木材工業の中心として大きくクローズアップされることになります。トーネット社の脚がしっかり確保されたのです。

■業界での揺るぎない地位を確立していく

トーネットのポスター・カタログ(1873年)。上部に受賞したメダル類の図と各工場、支店の所在地が示されている。

 1871年3月3日、曲木の生産技術を確立し、それを工業生産に導いた曲木家具の創始者、ミヒャエル・トーネットはその75年の生涯を終えました。彼はウィーンの中央墓地に眠ります。ベートーヴェンをはじめとする音楽家たちの墓が並ぶところの反対側に、いまもトーネット一族が一画を占めています。

 1873年から1874年にかけての世界的な大恐慌は、すべての企業に大なり小なり影響を与えました。しかしトーネット社は、1875年においてもなお5つの大工場を確保していました。すなわち、コリッチャヌイ、ビストリッツェ、グロスウグロウ、フセチン、ハレンコフの各工場です。そして1880年には、現ポーランド(当時はロシア領ポーランド)のノヴォ・ラドムスクにさらに新工場を建設します。ノヴォ・ラドムスクはウィーンとワルシャワとのほぼ真中に位置し、近くに炭鉱があって蒸気の燃料確保に便利だったのです。さらに、当時ウィーンと並び、北のパリといわれたワルシャワと、それにつながるロシアの主要都市への商品供給の要路でもありました。また、近隣には平野が多く、冬閑期に農民やその家族の労働力を得るのも容易でした。1883年、フセチン工場に火災が発生し焼失してしまいますが、トーネット社にはまだ充分な供給体勢がありました。

 1885年、椅子No.56が発表され、販売されます。通常1本の棒を用いて後脚と笠木とを一体に曲げる方法がとられていたのに対して、この椅子では後脚2本と笠木とは別の短い3本の部材が使われていました。これにより価格の低廉化と端材の使用が可能になります。また、輸出用としても、価格の点で充分な競争力を備えたものでした。

No.56(1886年)と
そのバリエーションさまざま
トーネット社の工場群。
自社のイーゼルがあしらわれている。