第一章曲木とトーネットの出発点

第二部:家具量産方式の誕生

■ウィーンへ移住、曲木家具の開発を進める

 家族とともに移り住んだウィーンで、トーネットはメッテルニヒ侯より、皇帝をはじめ有力な貴族たちを紹介され、彼らの宮殿のための家具類の製作を依頼されることになります。

 ボッパルトでまだ多額の負債をかかえていたトーネットにとって、ウィーンはまさに夢の町。
運命の女神は彼にほほえみかけ、1842年7月16日、オーストリア皇帝御料局は彼に特許を与えます。「すべての木材、最ももろい木材に類するものでも、科学的、機械的な方法で自由な形態に湾曲させる技術」これに対する特許です。
 そして彼は、この成型技術とともに、水蒸気の作用を応用して無垢材を曲げる曲木家具の開発を進めていきます。

■ウィーンでの最初の仕事は、リヒテンシュタイン宮殿の床の修復

トーネットが修復したパレ・リヒテン
シュタインの床(寄せ木インタルシア)

 ウィーンでの最初の仕事は、同市の大家具商として宮廷に力のあったカール・ライストラーの下請けでした。リヒテンシュタイン宮殿の舞踏室の、寄木細工でできた床の修復、また家具調度類の修復・製作を手がけ、1843年から1845年までの約3年間を過ごします。その間に椅子#1を製作しましたが、ここではまだ部分的に、成型に近い技法が用いられていました。しかし、これは、優美な曲線の背当たり部分や、軽量で、しかも充分に重量に耐えうる強靱さをもっていたので、記念すべき曲木椅子第一号として恥ずかしくないものでした。

パレ・リヒテンシュタインの
ための椅子第1号(1843年の構造)
パレ・リヒテンシュタインの椅子
(1843年頃)
No.1 の椅子(1845-1849年頃)

 リヒテンシュタイン宮殿の仕事を終え、ひとまず故郷ボッパルドに帰ったトーネットは、1849年、定住を前提として再びウィーンヘ戻ります。そして、マリアヒルファストラッセにある家具屋街に借りた工場で、一般向けの低廉で良質な椅子を製作しながら、かたわら特殊な実験にもいそしんでいました。そのために、彼は、カール・ライストラーの工場の一部を借りていましたが、まもなくその部屋も手狭となり、息子たちとともにグーペンドルフストラッセに一般民家を借りて移ります。

■No.4 ダウムの椅子

当時の社交場「カフェ・ダウム」

 1849年、ウィーン市内の「カフェ・ダウム」より依頼された椅子を皮切りに、注文も次々と増え、経済状態も好転。また、研究の方も一段とはかどり、合板の曲げ方をより複雑に組み合わせる方法にも、明るい展望を持つことができるようになりました。

No.4 カフェ・ダウムの椅子

 「カフェ・ダウム」の椅子は、背当たり部分のシンメトリーな唐草模様に成型技術を用い、その他は無垢材を用いて製作したものです。のちに唐草部分も無垢材にして曲げるとより低廉に製造できることがわかり、こうして製作したものをトーネット商会のカタログに載せることにしました。その間にすでに2号、3号の椅子ができていたため、この椅子はNo.4、別名"ダウムの椅子"と呼ばれ、トーネットによる初めての量産家具として有名になりました。これもまた、ウィーンの技術博物館に現存しています。

■量産化には、厚い部材が曲げられるかどうかが鍵

 そのころには、旧式な木工芸による家具生産は人々から忘れられがちになっていました。生産コストが高くつき、量産化が図られにくく、したがって価格も高くなるため、人気が落ちることは致し方がないことでした。

 トーネットは、家具の量産化には厚い部材が曲げられるかどうかが鍵だと考え、その開発に全力を注ぎます。まず木材を曲げる工程で、曲げた部分の外側にはじけや亀裂が入らない方法を考案しなければなりませんでした。そこで、材料の厚板や角棒の真直ぐなものを選び、それらを適当な温度で蒸し、熱と水蒸気を与えます。そして、その材木の外側に当たる部分に鉄板を置き、両端を固定して鉄製の型(モールド)にはめこみ、万力まんりきで固定させます。両端を固定された木の棒が鉄板とともに曲げられると、鉄板は木材の組織を圧縮させ、内側になる部分の組織を全体に縮めてしまう。この方法によれば、はじけや亀裂をほとんど作らずに曲げられます。あとは乾燥させて組織を固定し、さまざまな形状に曲げたものを組み合わせてデザインすればよいのです。
こうして第一の難問は克服されました。

 曲木家具の製作過程ではデザインは先行されず、木材という不均質な物質を、その性質に逆らわず、不利な点をかえって有利に置きかえて作られたものが多いのです。言葉を変えれば、工程から生じた必然性のあるデザインということが、従来のものと異なるのです。

■第一回万国博覧会で銅メダルを獲得

クリスタル・パレス(『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の挿絵)

 1851年、ロンドンにおいて第一回万国博覧会が開かれました。ここにジョゼフ・パクストンが建てた「クリスタル・パレス」(水晶宮)は、いままでの建築概念を打ち破る、新しい時代の幕開けとして迎えられました。天井の全面にガラスをいただく、この巨大な鉄骨構築物の窓枠デザインは、のちにトーネット椅子No.17のモチーフとなりますが、トーネットはこの展覧会のラグジュアリー・チェアの部に彼の椅子を出品し、銅メダルを獲得、彼の名とその作品は一躍世界に知られるようになりました。

 ちなみに、ほとんどの曲木椅子の棒材は、真円、またはそれに近い断面をもつのに対し、この椅子はほぼ楕円に近い形状です。現品は現在でも、チェコのホレショフ市の博物館に置かれています。

1851年ロンドン万博で建てられたジョセフ・パクストンによる
クリスタル・パレス
第1回ロンドン万国博出品作
これらにより銅賞を受賞
No.17 の椅子
クリスタル・パレスの窓枠をモチーフにしたデザイン
クリスタル・パレスの窓をモチーフにNo.16・No.17が
作られる。これを1862年のロンドン万国博に出品
(「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」)

■事業はますます発展し、諸外国へ販路を広げる

ミヒャエル・トーネット(中央)と、5人の息子たち、左よりミヒャエル2世、
ヨゼフ、アウグスト、フランツ、ヤコブ

 注文が増えるにつれ、ますます量産化の促進が図られねばなりません。トーネットは、グッペンドルフストラッセで古い水車を借りうけ、それを動力としました。労慟者は当初42名を雇い、機械の動力として初めて蒸気をも用います。そして1852年、木材を曲げる技術についての特許を取得し、ウィーン市内に直営の小売店を設けます。

 1853年には、使用人数も100名をこえ、企業スケールも倍に膨らみました。それまでの工場では賄いきれなくなったため、トーネットはウィーン市内に大きな工場と倉庫を借り、事業は発展の一途を辿りました。そして、一人では経営の手が回りかねるので分散化を図ります。

 製造にかかわる資材の調達だけを手許に残すことを条件に自分は総指揮の立場に回り、企業の経営面は成長した息子たちに任せたのでした。それとともに、会社名も従来の「ミヒャエル・トーネット商会」から「ゲブリューダー・トーネット商会」と改称、〝ゲブリューダー”とは〝兄弟”の意で新会社とします。そして設立以後、その製品はヨーロッパ各地はもちろん、遠くアフリカやアジアまで販路を拡大していきました。