第一章曲木とトーネットの出発点

第一部:曲木技術の発祥とミヒャエル・トーネット

■椅子の歴史から見る「トーネットの椅子」

No.214

 〝曲木家具”といえば、「トーネットの椅子」。今では一般的にそのように言われています。
 この世に誕生して以来、160年以上経過した現在においても、「永遠のモダン」として人々の心を捉えるこの椅子こそ、家具の傑作の代名詞となっています。

 椅子の歴史を簡単に辿ってみましょう。
 古くはアフリカやエジプトの壁画のなかにも多く見られるように、まず権威の象徴として王侯貴族に使われ始めました。続く時代においてもその位置は変わりませんが、特に中世期になると、その起源から教会用、宮廷用、さらに一般民衆家庭の必需品としてのそれに大別されるほど普及します。
 そして、時代を経るに従い、互いに混合・分離を繰り返し、そこに各民族独自の文化習俗や建築の影響が反映され、様々な呼称で呼ばれる、いわゆる「様式家具」が生まれたのです。

■「曲木家具」の生みの親、ミヒャエル・トーネット

 こうした時代の流れの中で、木を曲げるということは、いつ頃から行なわれるようになったのでしょうか。 それは、ヨーロッパの何箇所かでほとんど同時期に試みられていたようです。

ミヒャエル・トーネット(1796-1871)

 たとえば1810年には、車大工メリハル・フィンクが薄板を曲げる方法を発明しています。また1826年、イギリスのイザーク・ザーゲントが、板を湯で煮るか蒸すかをして柔らかくし、日陰で乾燥させるという方法をとって成功しています。もっともこの場合、薄い一枚の板しか曲げられず、材料もトネリコ材に限られていました。さらに1830年、アメリカのエドワード・レイノルズが、木を曲げる機械を発明します。ただし、この場合も、いわゆる「曲木」の観念がまだ徹底していなかったため、単板を曲げる作業を機械に置き替えたに過ぎませんでした。

 こうして19世紀の前半に、何人もが同じように機械的に木を曲げる方法を考案しましたが、いずれも、レイノルズの方法と大同小異で、根本的には何ら改良は見られないままに終わってしまいました。

 ところが、そのころ、現在のドイツの片田舎で、発明家でも技術者でもない一人の職人が、木を曲げることによる技術的・経済的な可能性を求め、その完成に向かって、ひとり工夫を凝らしていたのです。それが、「曲木家具」の生みの親、ミヒャエル・トーネットです。

■建具職人として腕を磨き、独立。そして量産化へ

 1796年7月2日、現在のドイツ(当時のプロシア)、ライン河沿いのボッパルドに生まれたミヒャエル・トーネットは、貧乏な父親フランツ・アントンのように、動物の皮をなめす、なめし革職人になるのを嫌い、木工芸の技術を身につけようと建具屋に弟子入りします。当時のヨーロッパでは、建具職人は「ギルド」と呼ばれる同業者団体に属していましたが、それはまた階級的な区分でもありました。ギルドの職人は、社会的地位でも一般の人々より上位に置かれ、その技術は高く評価されていたのです。

ライン河沿いのボッパルドの街(1899年頃)

 建具職人としての腕を磨いたトーネットは、1819年、わずか23歳で独立し、ボッパルドのワルブルギスガッセに小さな工場を建てます。彼の優れた技術と適正な価格で、多くの顧客を獲得し、商売は着実に広がっていきましたが、やがて供給が間に合わなくなり、彼は従来と違った製作方法、すなわち独自のテクニックで量産化につながる方法を考え出さざるを得なくなります。しかし、機械設備らしい機械設備を購入する資力もないので、それはあくまで手工業という枠の中での増産方法に限られるものでした。

 そこで1830年、トーネットは二枚の薄板をにかわで煮て貼り合わせたものから、家具の部品製作を初めて試みます。すなわち、その合板をアーチ状に曲げて椅子の背の横棒(笠木)とし、外側には良質で高価な木材を、内側には安い木材を用い、化粧材には外側に使ったものと同じ良質な薄板を貼り、無垢材のように見せたのです。
 さらに彼は、高級品の装飾的な部材として中空の丸棒を使います。それは、金属製の型(モールド)に極めて薄い板を圧着させることにより、より軽量で、より美しい曲線を生みだす試みでもありました。
 この方法は、他の家具の部材、たとえば、ベッドやソファの脚や背の部分にも使うことができたのです。

 これらの部品製作が可能になったため、続いて彼は、椅子のフレームの部材をも手掛けます。すなわち、それは、薄板を重ね、椅子の前脚と後脚を引き延ばして背の部分につなぐという、一体化した製作の試みでした。それらの材料は、にかわで煮ることにより柔らかさを増して曲げやすくなり、また接着も可能なこともわかりました。

■メッテルニヒ侯との出会い

メッテルニヒ(1773-1859)

 こうしてつくられたトーネット初期の椅子は、今なお何点かがウィ—ン市にある技術博物館に保存されています。

 1830年から1843年の間、トーネットは、かたや現在の成型合板のようなものを作りながら、曲木製造に関わる数々の試みを行い、その大きな可能性を信じて、次々に新たな技術的改良を求め、解決していきます。

ボッパルドのトーネット館にあった曲木による天蓋つきベッド。
第二次大戦で焼失してしまった。

 ボッパルド市はライン河沿いに位置し、ワインの産地としても知られます。そこから少し北に上ったコプレンツ市は、この近辺の中心地。こことマインツの間を、現在でもライン河見物の遊覧船が通っています。この一帯は、当時はプロシアのラインランド地方であり、オーストリア、ハンガリア大帝国の支配をも受けていました。統治にあたっていたのは、ハプスブルグ家の宰相で、ウィーン円卓会議の議長でもあったメッテルニヒ侯です。

 1830年、トーネットは、自分の考案した技術、すなわち薄板を用いて曲面や曲線を製作するために、それに湯あるいは水蒸気、にかわなどで適度の熱と水分を与えて曲げ、これを固定して家具部材とする技術を、イギリス、フランス、ベルギーなどへ特許申請します。
 しかし、当時、成型合板のような技法はまったく評価されず、全て却下されてしまいます。

ビーダーマイヤー様式の椅子
ミヒャエル・トーネット(1836-1840年頃)

 1841年、コブレンツ市で開催された産物品評会に、トーネットは自作のステッキ、こうもり傘の柄、車輪などを出品しました。 たまたまこの品評会の視察に訪れたメッテルニヒ侯は、トーネットの作品に非常な関心を抱き、高く評価して、彼を自分の居城、ヨハネスブルグ城へ呼びます。メッテルニヒ侯は改めてトーネットの作品を吟味、彼の天分を認めてウィーン行きを勧めました。そして彼に、当時城郭都市だったウィーン市内への通行許可証と、馬車一台とを与えたのです。この偶然のめぐり合いが、トーネット自身とその末裔に重要な影響を与えることになりました。

ミヒャエル・トーネットによるビーダーマイヤー様式の家具イラスト
当時の一般的なビーダーマイヤー様式の椅子